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ときめきの字体マンチュリアン!真似できたら素敵!

   

 漢字が好きなんで漢字の本をよく見ます。
書道では古い時代の中国の王義之が書の本には必ずと言っていいほど出てきますね。
書道はゆったり時間を持たないと集中できませんが2時間と区切って時間が取れたら
墨を擦って写経をしたり課題を書いたりしています。

 映画『ラスト・エンペラー』で強烈に記憶に残っているシーンは溥儀が宦官に
墨を飲めと命じたシーンです。幼いながらも皇帝として自立しようとしている
思春期前の少年に宮廷で権力を持っている宦官に『朕がが一番偉いんだ!』と
主張したシーンですね。痛々しいと思った記憶があります。

モチロン私はジョン・ローンが大好きでしたし、「アラビアのロレンス』の
ピーター・オトゥールも大好きな俳優さんで繰り返し見ました。

10年ほど前に西太后の花の絵をボストン美術館で見た時『ラストエンペラー』で
長い爪とゴルフボールのような黒真珠を死ぬときに口に突っ込まれて
ご臨終となったシーンをまざまざと思いだしてオドロオドロシイ印象を持っていたのですが
70歳を過ぎて絵画を習い描いた花々の美しさに強いだけではなく
豊かな感性と柔らかな情愛をもった貴婦人だと思いなおしました。

 この時愛新覚羅 溥儀は大清国第12代にして最後の皇帝、ラスト・エンペラーになった
瞬間でしたが手の込んだ服を着て頭のてっぺんから三つ編みプラプラさせた子供でしたね。
 溥儀は後に満州国執政から皇帝になったけれども赤軍に捕まって日本に亡命できず
戦犯として収容所に入れられ恩赦ででてからは北京植物園にオツトメして1964年から
中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員になったりして67年に亡くなりました。
中華圏最後の皇帝であり、その波乱万丈の生涯を扱った映画から『ラストエンペラー』として
知られるています。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称されました。

 なんで今回こんな話をしているかというと何年も前に(こればっかりですが)新しくなる前
(相当前!)の台北の故宮博物館でアラビア文字でもないし何だか素敵というお軸を見て
ときめいてしまいキュレーターの方に説明を求めたのですが「古い時代の文字」とだけしか
答えていただけず「故宮博物館のキュレーターのくせに!」と怒り心頭、その日は書道の本が
山積みになっている売店でときめいた文字の書道本がないものかと一日つぶす羽目に。
次ぎの日も博物館に行ってお茶したり手紙を書いて出したりと故宮三昧しました。

 その後新しくなった故宮博物館には3度ほど行きましたが白菜をみても叉焼をみても
中国からいらした団体様が騒々しくて新しくならなくても良かったよ!と内心毒づきました。
 悪口というのは何語で言っていてもなんとなく「感じ悪い」のが伝わって来て
「このお宝もあのお宝もみんな私たちの歴的財産なのに蒋介石めが盗んだから見に来なきゃ
いけない、返してもらいたいわねー」と言っていたに違いない!すごく気分悪かったもの。

 で、3年ほど前(これが最新情報なのが情けないですが)台北で溥儀の親戚にあたる溥心余
(余は辞書にないのでごめんなさい)の「書と絵」の展覧会をやっていて

その中の写真に例の「ときめいた字」があったんです。

 なんと、それはラスト・エンペラーが何度も言うセリフ「マンチュリアン」だったんです!
この溥儀の親戚の絵なども後ほどご覧くださいね!

発音記号も見つけました。これを組み合わせて内緒の日記でも書けたら。(笑)

単語の練習帳も、少しだけ見つけました。


『満州語【まんしゅうご】』についてのウンチク
 清朝を建てた満州族の言語。ツングース諸語の一つ。
17世紀初めからモンゴル文字による表記が行われたが,まもなく改良した満州文字が作られ
多くの文献を残した。
 未解読の女真語を除けばツングース諸語の中でかつて文献を有した唯一の言語。
 中国東北部(満州)に興り,17世紀初め清を建国した満州族の言語。
ツングース諸語の一つ。満州語は,満州におこなわれたが都を瀋陽から北京に移してからは
満州語を話す満州族は中国本土に広くひろがった。
しかし中国を軍事的・政治的には征服した満州族も文化的には征服され、言語も中国語を
使うようになって満州語は衰え、今日東北部では黒竜江省の数部落でしか使われなくなった。
ところが遠く清の西辺の防備のため,1764年から65年(乾隆29‐30)にかけて
満州から新疆へ移住したシベ(錫伯)族(シボ族ともいう)の兵士と家族の子孫が
今も新疆ウイグル自治区チャプチャルシベ(察布査爾錫伯)自治県などで満州語を話している。

 北方水滸伝+楊令伝+岳飛伝と読んでは泣き笑いしている私にとって、女真族ってのは楊令の
ムスコのコトジが育った金でありコトジが向かったモンゴルがムフフのフってところで
ネタバレ止めておきますが、『ご縁があったのね、トキメキの文字」という気持ちでした。

 「ときめきの文字」はアルタイ諸語ツングース系の言語で満州族の使った言語であるが、
現在は中国語の使用者が多く、満州語の話し手の数は僅少。
文字は縦書きの満州文字を使用。中国には現在も1000万人近い満州族(満族)がいるが、
満州語は新疆ウイグル自治区の一部で2万人程度に使われているにすぎない。
母音調和や膠着語など、他のツングース諸語と共通する言語的特徴をもつ一方、
語彙(ごい)にはモンゴル語や中国語からの借用語が多い。
モンゴル文字を改良した満州文字が清代につくられ当時の膨大な満州語の文献が残されている。

 ググってみたら、清(しん)国を建てた満洲族(満州族)の言語。
漢民族の漢語(中国語)とは別の言語である。しかし満洲族は、文化的には漢民族に同化し、
満州語を使うことをやめ、中国語を使うようになり、今日満州語は中国東北部でも
北のごく小部分でしか話されなくなった。錫伯(シベ)族(人口1990年17万2900人)も
かつて東北部で満州語を使っていたが、その後中国語を話すようになった。
しかし、清代に国境地域の警備のため、東北部から新疆(しんきょう/シンチヤン)へ移住した
一部の錫伯族の人々の子孫が新疆ウイグル自治区の察布査爾(チャプチャル)錫伯自治県などにおり、
いまも満州語を話し、新聞もある。
 その満州語を錫伯語という。したがって満州語は、死滅してしまった言語なのではない。
満州語は広義のツングース語の一方言であり、満州語の言語構造はだいたいにおいてツングース語の
他方言のそれと等しい。しかし、音韻、文法、語彙(ごい)の全般に他方言と著しく異なる点もある。
また、蒙古(もうこ)語、中国語から多くの借用語が入っている。
 満州語を書き表すのに、満洲族は1599年清の太祖の創案で蒙古字を用いることになり、
これを無圏点満州字とよぶ。1632年、それに丸や点を加えて改良した満州字が達海(ダハイ)によって
つくられ、前者と区別して有圏点満州字とよぶ。
初期の清朝の記録である「満文老(ろうとう)」のさらに原文書である「旧満州」は、
その古い部分は無圏点字で、新しい部分は有圏点字で書かれている。
有圏点字による満州語文献は種々豊富に残っており、清代の膨大な量の行政書類のほか、
清朝の歴史を記した『満州実録』のような史書などもあり、一方「四書五経」あるいは
『金瓶梅(きんぺいばい)』など、中国語からの多くの翻訳がある。

 日本には、すでに江戸時代に満州語の書物や文書が入っている。満州字で書いた
「清書千字文(しんしょせんじもん)」が載る『千字文註(せんじもんちゅう)』という書物も入り、
わが国で1715年(正徳5)に翻刻された。ロシアの使節レザノフが1804年(文化1)
長崎へ持参した国書には、満州語で記されたものもあった。
それを読解した人には高橋景保(かげやす)らがいて、満州語に関する著述もなされた。
[池上二良][参照項目] | ツングース語 | 満洲族 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について

オソマツ様でした。が字に対する偏愛ゆえにご容赦のほどを。 

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